「場の論理」と「中二階の原理」

 先日、伊丹敬之教授の新刊「中二階の原理」を手にして休日に読了しました。伊丹教授の著作はさまざまありますが、私自身が最初に手にして、またインパクトを受けたのが、「場の論理とマネジメント(2005)」でした。当時スコラ・コンサルトさんのいわゆる「氷山モデル」という仕組みの下にある「風土・文化」というものの重要性を認識しだしたころだったこともあり、切り口はちがうものの組織における「場」をマネジメントするという発想に新しさとそれにともなう難しさの双方を感じたものでした。

 今回の「中二階」とはこうした組織論の拡張もふくめ、日本の社会の中には「天皇制=国家権力」や「漢字=かな交じり文化」を含め、公の2階を補う上での「中二階」というものが存在することで2階だけではねじれが発生する状態を補っていくという視点から、戦略論、組織論、そして市場論までを包括的に説明するという試みでした。ただし前半の政治文化に絡めた日本論にはやや強引さがあるようにも感じられつつ、例えば外来のフォーマルな「漢字」を土着の「かな」が補完するといった、いわゆるハイブリッド思想にも、2階と中二階という弱い上下関係があるとまとめたところに、新たな視点がある様に感じました。

 たしかに組織では階層とルールがなくてはうごきませんが、「場の論理とマネジメント」にあるように、人間がコミュニティをして集うという、有機的な部分があってはじめてこうしたフォーマルなシステムがなりたつという視点、昨今は識学的な「上下関係」に注目が集まる一方で、対極的な「ティール組織」的な考えにも注目があつまるといった2極化がおきているように見えるところがありますが、こうした2面性を単なるバランスと解釈するのでは無く、「中二階」ととらえることで、全体としての空間的収まりが良くなる部分があることには納得する部分があります。

 組織における「機能と共同体」としての相克、また人間組織としての「理と情」という相克など、こうした矛盾はさまざま局面で感じられますが、これをいわゆる「対極制の管理」のような対等な振り子とみるのではなく、例えば大きな軸は「理」であるが、そこに中二階としての「情」をとりこんでいくというようなとらえかたは、こうした分断に一つの相互理解の道筋をつくる物ではないかと思います。

 伊丹氏は、経営哲学もあれば人物伝もあるといった多彩かつ連続的な刊行のエネルギーに驚かされますが、今回は「場」の論理が20年経つ中で、その当時やや概念的な記述がわかりにくかった部分を、新たなフレームワークへの落とし込みによって、よりシンプルに語られていてその思考の熟成を感じます。

 本書では、結論としてこうした中二階のハイブリッド的な思考がアメリカからの影響などによりそぎ落とされてしまったことが日本の長期の低迷につながっているという結論になっていますが、こうしたことはその昔は我が国企業の強みとして解釈されていた経緯もあり、単純に強みの弱体と結論づけてよいのかとも思えます。例えば岩尾俊兵氏が「日本式経営の逆襲」の中でいわゆる改善文化を新たな解釈を通して「再定義」されたように、この「中二階」という発想を単なる補完関係としてだけではなく、フレームとして積極的に再定義していくことが今後の前進のためには大切かと思えるのですが、それは我々現場を持つ者が日常の実践の中で、この「中二階」をより具体的に翻訳・再定義していくことがもとめられているように受けとりました。

 いずれにせよ、伊丹氏の著作の読後感は、その分析の論理の中にヒューマンな暖かさを感じることを再確認しました。

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