「カウンセリングとはなにか変化するということ」東畑開人著を読んで
ベストセラーになっているこの講談社現代新書のコピーには泣ける新書とあるが、実際に小説でもないのに泣けたのにはおどろいた。今売れっ子の心理学者東畑開人氏の新刊は、
一部得体のしれなさをもって見られていたカウンセリングの全体像をユーザー視点から、特定の手法にこだわることなく解説したものだが、泣かせる理由は、事例にでてくる架空のユーザー(クライアント)の事例に心動かされるからだ。一般的にこの手の書籍では匿名性を確保するため実際には存在しないケースを短く掲載する程度だが、本書では、上司との関係が劇的に変わった男性のケース、あるいは8年間毎週セッションをうけつづけ、新たな自身をつくりあげた女性のケースなど、セッションでの真剣勝負を通じて繰り広げられるそれぞれの人生の物語はまるでドラマを見ているようである。
氏のこれまでの著作にも数冊触れてきたが、それぞれ斬新な切り口である。カウンセリングは日常の知り合いとの相談がベースにあり、それを例えば宗教家や占いといったものが補完していた。しかし近代になり、個人が地縁血縁から自主独立をもとめられる時代になり、結果としてこうした専門職が必要とされる時代解説も興味ぶかい。こうした近代の問題は浜口洋介氏などは保守思想への回帰としてとらえているし、また東畑氏も社会の問題が全て個人に帰結されることへの危惧も表明しているが、いずれにせよ重要度をますこの古くて新しい専門職が
より正しく理解される必要性からの非常に包括的かつ啓蒙的な著作といえよう。
筆者はとかく流儀が多くてわかりにくいカウンセリングの世界を広くとらえ、生活をあつかう「作戦会議としてのカウンセリング」と人生を扱う「冒険としてのカウンセリング」に分けたところに秀眉がある。生活を扱うとは、社会的な生活がおくれない、すなわち食っていけない状況に対応することを指し、一方生活は回っているが、生きる意味の喪失といった実存的な悩みというものにあえて取り組むことを冒険に踏み出すとしている。それぞれに適した理論があり、前者の代表が家族療法や認知行動療法で壊れたものをもとに戻すアプローチであり、後者のそれはフロイト、アドラー、あるいはロジャースといった深層心理にアプローチし、一見成り立っているようなものを会えて壊すことで新たな自身をつくりだすアプローチであるという。後者は前者を浅すぎる、前者は後者を非科学的であるといった激しい対立があったということもその目的の違いや手法の違いからもうなづける。
これらが本書の特徴的な論旨に思えるが、私自身はこの2分法はカウンセリングだけでなく、企業変革なども含めた人間が変わるという文脈において同じ視点で整理できるのではないかと
いうことを感じる。たとえば、業績向上のために、仕組みややりかたをフレドリック・テイラーに代表されるような「科学的」にあてはめるというアプローチがある一方、昨今はエドガー・シャインのように、対話的に支援をしていくような主体性、関係性を重視したアプローチもかなり認知されるようになった。この2つのアプローチには大きな隔たりがあり、これを筆者の言う作戦会議と冒険との違いと捉えられるように思う。 私自身、30年前入社当時は、組織構造を整理したり、人事制度や管理体系など、目に見える部分を整えるという施策をやってきたが、そうしたアプローチではどうにもならない古参の部下のの方との関わりに直面したとき、当時スコラ・コンサルトの柴田さんに出会い、「氷山の下」といわれる組織の見えない部分にアプローチをすることに取り組んだことを思い出す。実は、当時生産方式のコンサルタントの方にも同時に指導をいただいていたので、やらせる改革と内発的動機をベースにするという価値観の違いですったもんだがあった。
休日にコンサルの方とどちらが正しいのかという水掛け論をして一日が過ぎたのは、今思うと若気の至りであったが、この対立の背景は東畑氏の整理と重なる部分を感じる。
話は変わるが、私自身も実存の課題でかなり精神的に追い込まれた時期があった。年齢を重ね、人生の終焉が意識されるようになると、なんのために生きているのかというような、青臭い課題に翻弄された。その時は特に突然腹部に襲ってくる原因不明の痛みとの戦いが難儀だった。実はその数年後に大病がみつかり外科手術をしたのだが、手術後のICUで人生最大級の身体的苦痛を味わうことになった。炎症のため身の置きどころがなく、電動ベットをそれこそ5分毎に立てたり横にしたりして、まんじりとすることもなく昼夜を過ごしたのだが、なぜかその強烈な苦痛は治癒した今となってはほとんど思い出さない。一方で、先の実存的テーマによる身体的苦痛の体験は今でも時折リアルに記憶に蘇る。その時の痛みの記憶が、現在の生き方にある種の物語として響いているようだ。
先の古参の部下の方の話は、当時私自身が素人経営者として支えてもらいつつ、こちらの意向を正論として伝えていたのだが、一向にその点への変化が見られず、思い余って机を激しく叩いてしまい、手の平に内出血をしたこともあったほどだった。しかしその後目に見えない部分へのアプローチの一環で、社内に対話的文化が広がるにしたがい、古参の方の超えてきた歴史、家庭環境から不況時にリストラを断行せざるを得なかった苦い思い出など、表立って表現されないその実像が少しづつ輪郭をもって見えてきた。すると組織に思わぬ力学が生じ、それが社員の自律をともなった世代交代の動きとなっていったことを思い出す。最近のことだが、それから20数年がたちながら、今や幹部クラスになった、当時の若手社員が、その当時古参の方に反発をしていたことも前提にしながら「あのときの◯◯さんの精神を私達はわすれているのではないだろうか」と敬意をもって言及するのを聞くと、当時の葛藤がしみじみと思い出され、こうして物語というものがうけつがれてていることを実感する。
冒険的カウンセリングではないが、こうしたプロセスには紆余曲折があるし、時間もかかれば偶然性にも依存する。また数値的成果への因果関係もみえにくい。稲盛さん京セラフィロソフィーを中心にしたJALの改革の効果が目に見えるには5年かかったとも聞く。しかし、当時JALの乗務員の方の心配りがそれこそ微細なレベルで洗練されていっていることを乗客の一人として私自身実感したのもまた事実である。
「成長できる企業」という響きのよい言葉を聞くことがよくあるし私自身もそうありたいと思う。しかし、本書にあるように改めて成長ということばは簡単につかえないようにも感じる、すなわち自分自身のなかで、生活面での成長と人生面での成長、こうした相克する人間の変化というものをどう位置づけているか。そし冒険をともなう変化への器が組織としてしっかりとできているのか、
生活か人生か、ではなく、生活にも人生にも双方に向き合えるような企業体でありたいということが本書が私に問いかけたテーマである。
そして、この著作の終盤で強調されるのが、新しい物語を求めることの前に、本当に難しいのは、破局をともなう古い物語を終えることだ。この年令になると数々の喪失体験が思い出され、そして人生の有限性がしばしば意識される。この喪失と孤独の体験がやがて物語として文学になるときに、私達には新しい物語を手にする準備がえられるというのだ。年齢を重ねると、数々の喪失が
折り重なり、さらに生き延びるための代償としての身体的な制約も増えてくる。それでもそうしたものが新たな文学をつくりあげると考えると、むしろ勇気と希望におもえてくる。
東畑氏の師匠筋にあたる河合隼雄は、「河合隼雄とはなにものか、を追求している」といっている。カウンセリングは集結があるのだろうが、冒険としての自己探求は一生続くのだろう。自分自身がカウンセリングを受けたような読後感であった。


