目的と手段(二番煎じ)
社員ブログの方で、ソくんが「目的と手段」というテーマをとりあげていて、大変興味ぶかかったので、
私自身も少しく考えてみることにした。
30年前に突然経営者になることとなった当時、組織体制など、しくみにしか目が向いていなかった自分に
とって、スコラ・コンサルトの柴田さんとの出会いは、組織風土という目に見えないものへの扉を
開いてもらう大きなきっかけとなった。
1年ほど通った経営者オフサイトの場で、柴田さんは「青臭い議論になることをいとわないで」と前置き
しながら、「そもそもなんのために」を常に問いとしてたてるように促した。最近でこそサイモン・シニック
が「Find Your WHY」の中で、ゴールデン・サークル理論としてHowの前にWhyを考えよと言っている。が
当時としては新鮮なアプローチで、この考えに共感して「もくてき」という名前の会社まで立ち上げられた
コンサルの方がいたことを思い出した。とはいえ、私自身、「なんのために」という目的よりも「こうすれば」
という手段が先に思いつくことが圧倒的に多い。
人はニーズ(=安全、尊重、つながり、理解、自律、達成...といったような人間に普遍的な欲求、マーレーの
一次欲求と二次欲求をあわせたような概念)では対立しないが、それを実現する手段で対立するということ
を教えてくれたのは、共感的コミュニケーション(NVC)の創設者であるマーシャル・ローゼンバーグである。たとえば平和をもとめるにしても、軍拡かたや軍縮いう方法論の違いはいつの時代でも激しい対立を産んでいる。
柴田さんが「そもそものなんのために」を大切にした理由には、マーシャルも言うように、手段は
往々にして、どちらが正しいか、間違っているかというディベートに陥りやすく相談になりにくい。
また権力がしばしば手段を強要することで、手段が目的化することで最終的に崩壊するという現実を
当時盛んであった大手メーカでの全社的TQM活動の弊害から導き出したのだろう。他方、目的を考え、
共有していくことは、遠回りで時間もかかるのだが、主体的にとりくめることにつながったり、
一つの手段に限定されないという応用力がうまれたりする。柴田さんが「相手の腹に落ちているか」
ということを強調されたときには、当時は若気の至りでなんと回りくどいことかと思ったものだが、
ある時、たとえ稚拙な手段とみえるようなことも、目的を共有した結果として生み出された場合には、
与えられた手段より何倍も大きな結果を生むものであるということを、風土改革のプロセスで実感する
ことがあった。あたえられた手段はそこで止まるが、目的から生み出された手段には、試行錯誤を伴う
からだろうか。柴田さんは、問題が問題をうみ、それがまるでビリヤードの玉突きのようにつづいていくことのほうが、何か短期で達成することよりも重要であるということしたが、意図された不安定さは安定による
衰退にまさるという思想は、本当の意味で人間の可能性を信じるからこそであったのではないか。
とはいえ、手段に対する執着は大きいものであるとも感じる。私も未だによくやってしまうのだが、
パートナーが悩みごとの相談をしてくると、安易に「こうしたらいいんじゃないの」的な返答をしてしまい、
「そういうことを言ってもらいたかったのではない」と怒られるというやつである。NVC的には「嘆き」
のニーズを満たしたかったということになるのだろうが、手段を考えることは生存本能と結びついている
ような気もしていて、ここについては常にトレーニングが必要だと感じる。
一方で手段にこだわりたい人間としての本性も無視できないものであろう。この世に生を受けた固有の
存在としての独自性、そしてその人しか体験することのできかった生い立ちや歴史、成功体験という
ものが、その人なりの「手段感」を往々にして形作っているだろう。だから手段を考えるということは
自分自身、そして相手の背景というものを深く理解するための糸口といえるのではないか。
大病を経験したので、「生かしてもらっている」ありがたさつくづく感じるのではあるが、一方
「人はパンのみに生きるにあらず」ではないが、それでも「なんのために生まれてきたのだろうか」という
自己存在の意味を説い続ける存在でもあるだろう。過酷な状況を生き抜く力もあれば、一方で孤独で命を
落とすこともあるという、多様なニーズに支えられる社会的生物としての独特な性質は深淵である。
とはいえ、仕事の場は機能(ファンクション)として集まっていることもあり、コミュニティとして
すべての人のニーズを満たすことは難しいときもあるだろう。目的とは、こうした手段とニーズの
中間地点にある、時間的空間的に限定された羅針盤のようなものであろう。そして「他者に喜んでもらえると、自分も満たされる」という貢献のニーズや、「誇りをもっていきる」という責任のニーズといったものは、仕事の場だからこそ、高い次元で満たされることもあるだろう。そして時には談笑したり、お互いに弱音を
はいたりできるという、コミュニティとしての役割とのバランスも重要であると考える。
つまりは「よく生きる」ために、大きな目的を共有しながら、一方でこの世に生を受けた人という独特の
存在が集まっていることから生み出される、さまざまな手段が柔軟に生み出される場をつくっていくということが、結果として生活の安定や持続的な発展をうんでいくということになるのだろうか。
ということで年の瀬を迎え、会社の来期の目標をたてているのだが、今年はその背後にある目的も合わせて伝えていこう、ということを試みている。はたしてうまくいくかどうかわからないが、こうしたことを通じて、意味、目的をお互いに問いかけながら進んでいける組織になっていきたいと思う。


