節目の年

9月になって還暦を迎えた。30歳のときに仕事を引き継いだときは本当に暗中模索の日々だったので、この年まで仕事をつづけられて
きたこと自体がとても感慨深く、またありがたいことである。年初に半藤一利さんの昭和史の再販本を手にしたが、ちょうど昭和100年とあり、またこの夏は戦後80年が話題になり、そして60歳である。加えて120年前の9月には日露戦争から派生した民衆暴動、日比谷焼き討ち事件がおきたときでもあり、ここから破滅的戦争に入っていったこれも節目の年といえよう。

 このところ戦後80年にからめて戦前の我が国の歩みを少しく振り返って見たが、その中でも満州国がかつて存在したということ
は私にとって特別のことである。というのも当社も満州国に支店をだしており、軍部との取引資料も残っている。そして敗戦は祖父に
とって価値観がひっくり変えるような出来事であり、戦後は事業意欲を失ってしまったようだ。その時父はまだ16歳だったが、
東京電気学校(今の東京電機大の前身)を辞めて、戦地からもどってくる社員の方の職場の再興にあたった。

 また母は当時の満州国大連で生まれ、戦後祖母と兄弟4人とともに(祖父は満州でなくなった)引揚船で日本にもどり、兄弟ばらばら
に親戚筋の家に成人まで居候したという。叔父は納屋で勉学に励み、母は成績優秀で推薦もされたが、高校卒業とともに銀行に就職した。
 当時の満州国の写真をみると、その近代的な姿に驚きを禁じ得ないが、資源のない国として、他国に膨張することが国民の希望となり、
そして悲劇になったという事実は今では思いもよらないことだが、支店を出した祖父、疎開をしてきた父、そして引き揚げを経験した
母も当時のことについて多くを語らずに逝った。ここにきて叔母に当時のことを聞く機会があったのだが、東京から当地に疎開してきた
父は、いずれ東京に戻るつもりであったが、地元の村長から「ここは工業化がすすんでいないので、この地で事業を継続してほしい」といわれて残ったという話しや、そうした中での母との出会いもあったようで、改めて戦後復興を自分自身に引き寄せて感じる夏となった。 
その後なにかそうしたことに触れられないかと、新宿住友ビルにある平和祈念展示資料館を知り見に行ったこともあるが、それ以降
積極的にこうした資料に触れていない。

 疎開にしても引き上げにしても、知らない土地で事業を立ち上げていくというのは果たしてどのような心境だったのだろうか。私自身
国内海外含め各地に出張にいく機会がしばしばあったが、仕事関係のみ処理してとんぼ返りが常で、その土地の歴史を見ることなく
今日まで来てしまった。広島、沖縄も訪れたが、戦争の足跡を訪れるもなく、今年こそ平和記念資料館くらいは訪れておきたいと思って
いる。半藤氏は別のところで、日本は明治維新から約40年かけて西欧世界に並び、その後40年で敗戦を迎え、さらに40年で戦後
復興し、バブル崩壊からまた衰退していったという40年周期説を唱えられていた。その意味で今年は新たな40年のスタートとだと
思いたいものだ。 とはいえ、今日の国内や世界の情勢をみるときに、人類は過去に学んで進化していくものだと信じているところが
あったが、世界も周期的に動いており、そう単純なものでもないという現実に突き当たる。
 先に30年前のことを書いたが、実は数年前に経験した大病を考えると、仕事以前にこうして生きて日々を過ごせることそのものが
ありがたいことと実感される。実は父も私と同じくらい、50代の後半で大病し手術を経験しており、復帰後に社内に向けて書いた
文章が手元にある。そこには「今までなんとか生業を続けられたのもお客様と社員の皆さんの力添えのおかげで、感謝にたえない。私も長くても10年(自覚している)」とある。実はその後5年程度で別の病となり、10年を待たずして逝ったのだが、こうした文章から晩年の心境が伝わってくる。限られた人生というものがより自覚的になる昨今であり、良きことに目を向けて日々を大切にすごしていきたいと思う。