猫寺

引っ越しをきっかけに10年近くテレビを見ない生活になっていたのだが、巷の話題にうとくなることもあり、最近になってインターネットを使った視聴を復活した。しかしニュースはラジオやネットでも十分な情報が流れてくるし、テレビ無しに慣れてしまうと、なかなか時間をつかってまで興味を持てる番組に出会えない日々が続いている。たまにつけて昔見ていた芸能人の方が年をとっているのをみて、時の移ろいに愕然としたりしている。

 それでも雨の休日に、運動のついでに何気なくつけたところ、「72時間」といういわゆる日常版ドキュメンタリーで、福井県の猫のあつまる禅寺を取り上げていた。最近の猫ブームに乗ったわけでなく、以前の住職が捨て猫の世話をしていたことで、自然に「猫寺」になったらしい。印象深かったのは、猫とふれあいたいと参詣する人がいる一方で、生きることに疲れた人が、長年にわたりこの辺境の禅寺に通いながら猫との交流の中で徐々に健康を快復していったという人が、幾人もおられることであった。

 また、常連の人の中には、寺で生活をする猫たちに、集団で生きていくことへの厳しさ、過酷さを見いだしている人もいた。だれしももつ「悩み」というものが「生きる上での共通の普遍性」と感じられることが人間に勇気をあたえることがある。しかし、猫にまでこうした思いが及ぶという事実は、面白くもあり、また弱肉強食を生きることの切なさも感じる。

 ペットとしての猫も当然「癒やし」はあるだろうが、そこには人間が飼うということがある程度意識される。しかしこの寺では人間と猫というものが、一個の生命として対等に存在をしている。そしてそれぞれの人が、それぞれ別々の猫に対し、性格やある種の猫としての生きざまを見いだし、共感し、そしてこの小動物から人間自身が癒やされ、立ち直っていく。言葉もない、第三者の介在もない、こうした小さな生命の存在そのものが、人間の生きる力をよみがえらせる何かもっていることに驚かされる。

 また、この舞台が禅寺であったことも、こうした場をつくりあげているのかもしれない。「猫はすでに悟っている」と、休職から立ち直った女性の言葉が紹介されていたが、幾人もの修行僧が同じ場所で悟りに向けて修行していることも興味深く、一方で悟りとはなにかということを示唆もしているようである。

 インターネット下では、自分の興味関心のあるものだけを、それこそ短時間で視聴するというような環境になっている。しかしこうしてなにげなしにであった、およそ商業主義にはのってこないような作品にであうと、ネットで書籍を買っている日常の中で、たまたま書店で心打つ書物にであったような因縁を感じた。単なるテレビの感想だが、こうして書いてみたくなったのも猫パワーのなせるものなのか。

(NHKドキュメント72hours「福井 “ねこ寺”に招かれて」)

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