我々はクズなのか。

組織の中の「コミュニティ性」というものを意識するようになったのも、スコラの柴田さんと出会ってからだろう。マネジメント経験のないまま突然経営者になったときに、いろいろな仕組みやルール、施策をいれていこうとしたが、そこには、組織を「機能(ファンクション)」ととらえ、人間をアメとムチにより支配可能なものとして考えた所以だ。だから、今でこそ当たり前のように聞かれることになった「内発的動機」という言葉を四半世紀前に柴田氏から聞いたときはその私の世界観にない言葉に純粋に驚いた。今振り返ると、父の急逝により経営についた当時の私に経営者として生きるということへの内発的な動機がみいだせなかったからであろうか。

 宮台真司氏というと、「クズ」「ブタ」など過激な言葉を使われその真意までいたっていなかった。しかし近著(「経営リーダーのための社会システム論」野田智義氏との共著:光文社)に触れる機会があり、その真意を少しく理解した。つまり過去には「生活世界」という小さなコミュニティーの中で、全人格的にふれあってきた私たちが、管理と統制の効いた「システム世界」の中に生きざるを得ない現代において、人との関わりで得られるいきいきした感情を失い、機械のように没個性化・役割化し、ルールとマニュアルの中で匿名化する。そこには「大義」や「仲間」のために、それこそ内発的動機で動く人間はいなくなり、すべて計算と損得勘定が判断基準になる、こうした感情の劣化を「クズ」になるな、と表現されているのだ。たしかに昨今は商店街での店主とやりとりはほぼなくなり、コンビニ的空間の中で、煩わしい人間というものを意識せずに、無色透明に生きることができる、一見生きやすい環境が生まれたようにみえる。しかし宮台氏によると、こうしたシステム化は高度成長の時代には必要ではあったものの、その後必ず「われわれ意識」が失われた「お節介」のなくなった荒廃する社会が残る、ということを、すでにウェーバーが予測していたというのだ。

 「ファンクション化」した組織の中に、ある種の「コミュニティ性」を適切に包含していくこと、すなわち適度な仲間意識をもてること、そこにはいい意味での「お節介」が存在し、三遊間のゴロを拾うことができる、とは柴田さんの例示の私なりの言い換えである。しかしシステム化が進むことで、共同体の中でかけがえのない自分というものが、置き換え可能なパーツとなっていくことへの孤独。私の理解では柴田氏の風土改革というアプローチは、宮台氏のこうした警告を現代の企業社会の中にどう具現化してのかということへの一つの解決策であるように思う。

 私たちは「うまく生きていきたい」と思う。不安を避けるために、苦痛がなく、人間的な軋轢もなく、空気を読みながら、安楽に生きていきたい。しかし、人間の本性としての「貢献にたいする喜び」をあげるまでもなく、すべて合理的ではなくおもわずよらず行動してしまう、感情によって、あるいは倫理性によって動くということもある人間というものの不思議さ。「うまく生きる」よりもむしろ「よく生きたい」とも思える人間という物の可能性。こうしたものの存在にも目を向けることは、統制という視点からはリスクともいえるが、一方で思いもよらぬ結果を生み出すことがある、という事実をたしかに私自身も何度か目にしてきた。そしてそうした体験をしたことのある人から聞くのは、「当時は大変だったけれど、充実していた」的な感想である。

 ネット空間やメッセージというもので、わたしたちは便利に楽に生きていく方向に流れていく、のはやむを得ないし、私自身もそうである。しかし、一見すると大変な事も含めて、それを仲間と共に体験すること、こうしたことの中に、論理的な頭脳をもちながらも、一方でAIや機械学習では置き換えられない、感情という、やっかいな機能を埋め込まれた人間として、生きていくことの醍醐味があるのかもしれない。

 宮台氏のご健康の回復と、事件解決を願いながら、ひきつづきこうしたメッセージを発信していってほしいと願う。

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