兄弟というもの(2)

(承前)その後リハビリセンターなどでトレーニングを重ねたが、車椅子生活はまぬがれず、家族総出
で、弟をうけいれてくれる就職先を探した。彼は事故後も大学の配慮で、工学修士まで修めたので、
技術者としてうけいれてもらえるというお話しが2社ほどあった。メーカR社は、研究所でうけいれて
くれることになったが、インフラが障害者対応になっておらず、人事が汗をかいて、手すりやスロープを
ととのえてくれるということになった。が、結局障害者の寮まで完備しているS社にお世話になることに
なった。R社に断りをいれるのには本人も家族も苦悩したが、まずは生活ができるかとことを中心に
考えざるを得なかった。

障害者雇用に積極的なO社の見学をするため一緒に京都にいったおりに、タクシーの乗車拒否という
ものを体験した。義憤にかられてタクシー会社に抗議の電話をしたが、そうしたやり方が良かったのか
よく分からない。弟は淡々としたものだったが、こうした事がこれからも起こって行くのだろう、と
いう事が当時の自分には大きなショックだった。

S社の職場は神奈川県の県央にあり、高速の接続がなかった当時はこちらから車で3、4時間ほど
かかった。弟のことでめっきり気弱になった父とは対称的に、母親は家業の経理をこなしながら、忙し
いなかでも週末には弟のところに食事や洗濯のために通っていた。私もたまに同行したが、母の気力と
体力には、今考えてもすさまじいものがあった。母は仕事をすることが、彼のことから頭を切り替える
ことができる、というようなこともいっていた記憶がある。もともとの完璧主義に拍車をかけるよう
な母の行動は弟にとってありがたいことでもあり、しんどいことでもあったのではないか。

家族にとって救いだったのが、弟がこうした状況に弱音を(少なくとも私の前では)語らなかったこと
である。「オレは楽天的だから」などといいながら、陰では相当な葛藤があっただろうか。障害の受容
のプロセスは家族でも想像がつかない。しかし、こうした彼の態度にずいぶんと助けられた。精神科医
のフランクルが人間には行動することによる「創造価値」だけでなく、どうあるかという「態度価値」
の重要性を説いているが、彼の態度はまさにそういうものであった。

こうした混乱の中、私自身、なんとかそれまでの不肖の息子を脱却して、長兄としての面目をはたそう
としていた。しかし、同時にそれまでの兄弟としての競争から開放されるのではないかという、一抹の
安堵感を感じている自分があったこと、そうした言葉にするのは不謹慎な自身の闇の部分の存在に自覚
的になったのには、ずいぶんと時間がかかった。家業の承継というテーマを考えることを先送りしてい
た自分にとって、弟の事故が「家族の役割としての承継」というものをより必然のものとしてとらえ
ざるをえないのだ、というべき論として迫ってきた。

それでも実際には、父に病魔がおそわれるまで、地元企業で優秀な上司や同僚とともにエンジニアの
端くれとして働くことができたのは、思い出深くほんとうにありがたいことでもあった。同時に自分が
エンジニアとしての身の程を知る機会にもなった。だからこそ、弟の元々の技術的素質を思うとき、
彼が仮に一緒に仕事をしてくれていたら、今ごろどんな事業を展開してくれていただろうか、と詮ない
想像をめぐらすことがある。(つづく)

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