Being Peace

 今年天寿を全うされた方としては、(少し間があきますが、)今年はじめの禅僧のティク・ナット・ハン師もあげらるでしょう。「ビーイング・ピース」という翻訳本を20数年前にはじめて手にしたとき、その美しい文章に惹かれ、しばらく通勤の鞄のなかにいれて持ち運んでいたことを思い出します。師はさまざまな瞑想の実践方法を、平和運動とともに伝えられていました。私もその当時仕事のストレスの中で自分を保つために、在家の瞑想の指導者の方に、原始仏教のビパッサナー瞑想を教えてもらい始めたころだったのですが、歩く、座るという地味なプラクティスを、師の著作からもモチベートさせていたただいていたように思います。その在家の先生とのご縁ももう20年をすぎまして、一日一日はわずかな時間ですが、日常の一部となったそうした実践をハン師にもささえていただいたことに感謝をしています。

 さて、ハン師の真骨頂は、その簡素にして詩的な表現にあるように思いました。ノンネイティブとして英語でのティーチングをおこなっておられたため、語彙はある程度限られますが、逆にその易しい表現がわかりやすく、数々の著作から心を動かされてきました。そうした教えのなかで、特に印象的なのが、怒りの対処法でした。怒りを感じる相手に対して、相手にその怒りが自分におきていることを正直に打ち明け、「自分のこの怒りの気持ちが苦しい、自分としては最善を尽くしたいので、どうか助けてほしい」と怒りを感じる相手に助けを乞うという内容だったと記憶しています。ベトナム戦争という未曾有の体験の中での抗議活動など「行動する仏教徒」としての活動は「香しき椰子の葉よ」という日記集に詳しいですが、敵に対して起こりえる怒りは、平和な国に暮らしている私には想像を超える物であり、そうした究極の体験をされたなかで編み出された実践であるからこそ、こうしたコペルニクス的な智惠がうまれるのかと、感銘をうけたを思い出します。

その後、こうした瞑想がいわゆる仏教的戒律といった宗教色を排除して「マインドフルネス」というくくりで、欧米のIT企業を始めポピュラーになったこと、また日本では藤田一照師や山下良道師による「仏教3.0」という実践的仏教への変化と、それに伴う我が国のハン師への注目も、その当時は思いもよらないことでした。とくに藤田師は私にとっては、そうした実践が私たち日本人の日常には縁遠く、経典の解説が中心の文献しかなかなか入手できない時代に、海外におけるあらたな実践の仏教の翻訳を日本にいち早く紹介されたことや、具体的な禅の実践の大著などで私自身がいただいた恩恵も大きく、今日でも領域を越えた活動をさらに加速されていることはとてもうれしいことであります。

 先日その藤田一照師がティクナットハン師の思い出を動画で語られているのを拝見する機会がありました。ハン師が日本にこられたときその通訳を買って出られたということでしたが、日々修行に厳しい態度で向き合う藤田師に対し一言「スマイル」といったこと、そして師の「There is no way to happiness, happiness is the way(幸福に至る道があるのではない、幸福こそが道である)」という言葉を出して、修行その物に取り組めることこそが幸せなのだ、と説かれたことがその後の修行観に大きな影響をもたらしたとおっしゃっていました。

 私も日常仕事をする上で、なかなかうまくいかずしんどいなと思うことがしばしばありますが、そうしたプロセスの中にこそ幸せを見いだすことが可能なのだよ、と教えていただいているように思い、目標と結果がすべてという世界にあってもなお、改めてこうした心持ちのありかたとの大切さを今は亡き師から学ばせていただきました。

 最近はDoing からBeingへ、やり方よりも在り方の大切ということも言われることも増えてきているように思います。そうはいえども格闘をしなくてはならない現実もあります。しかし当時は気にとめなかったハン師の「Being Peace」という表題にこめられた意味あいというものを、改めて味わいながらそのご冥福を改めてお祈りしたいと思います。

 

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