72時間
最近はいわゆる「連ドラ」が見られない、と妻がいう。
引っ越したのを契機に、テレビをみなくなって10年ほどたっていたのだが、NHKの請求もうるさいので、数年前にインターネットテレビを開通させた。
この年になると、現実に起きる様々なことが、ドラマで起きることを上回ることも多い。プロットにしてみたら、わざとらしく思えるような、想定外の思いもよらないことが人生に起こることも多くなった。だから気持ちの機微を丁寧に描くようなドラマに感情移入しなくなっているのではないか、そんな解釈をした。
これだけyoutubeなどが日常になると、自ら選んでコンテンツを探しに行くのが習い性になってしまう。昨年入院したときに、受け身で時間を待つテレビ視聴という行為が、これほどまで退屈なものなのかということに、少し驚いてしまった。
それでもタイムリーな情報源として、夜7時の天気予報とニュース番組がひとつの視聴ポイントなのだが、たまに目を引かれるのが、72時間というドキュメンタリーだ。ある場所をひたすら3日間とり続けるという企画で、根強いファンも多いようだ。
テレビは、華やかなセレブリティが登場する世界だが、このドキュメンタリーには、ほんとうに日常の市井の生活が描きだされる。実ははじめから終わりまではきちんと見るわけでもなく、たまたま気がついたときにしばらく見始める。番組でありながら、人との偶然の出会いという感覚がある。
昨日たまたま目にしたのが、琵琶湖畔での72時間。占い師だったがコロナで仕事がなくなり、必死で探した介護職についてなんとかやっているという女性の休日の一場面。
「贅沢はできないが、それでも人間は、今幸せであると思えば一瞬にして幸せになれるものだ」と琵琶湖をみながら語っていた。真理をついた一言が、個人の体験から実感として伝わる。哲学書などより言葉に重みがある。
隅田川の回では、夢破れた壮年の男性が、川辺に横たわって日長過ごしている様子があった。インタビューでは思うようにならない人生を語りながら、それでも再起を誓っていた。痛々しい感じもしつつ他人事には思えない。
大病院の引っ越しという回では、ベテランのドクターがいらなくなった担当医師を表示する名札を記念にあつめながら、こんなことを語っていた。「直ってしまった患者さんは覚えていない、助けられなかった患者さんのことを思い出す。1週間泊まり込みで寝ずに看病したが、先輩医師から『助からないのはおまえが一番よく知っているだろう』といわれて我に返った。それを機会にこの患者の病気を生涯のテーマにして治療していこうと誓った、という。
一人一人は数分のインタビューにすぎないのだが、その中に人生の歩みと痛み、そしてそれを乗り越えた意思というものが、エッセンスのように語られる。とくに結論もない。ただ淡々とインタビューが続いていき、3日間たったところで番組が終わる。
これ以外にもいくつか思い出すシーンがあるが、なまじのドラマの名台詞よりもこうした言葉が頭に焼き付くのは、不思議なものだ。普段なにげなく接している知己の中にも、見えないこうしたものがあることが想像されることが、この番組の奥行きになっている。セルフ・コンパッションでは「共通の人間性(common humanity)」が一つのポイントであるが、そんなことにも通じる。
ちなみに妻は、15分の連続テレビ小説にはまっている。昨今はショート動画が盛んだが、これなどはある意味時代をかなり先取りしていたようにも思える。こうした番組の進行状況にも、なんとか話をあわせられるようにしておくことも、家庭生活においては肝要だ。