おのづからとみずから

 エフェクチュエーションの流れで、それを積極的に紹介されている元大阪大学の中川さんの経営学の動画を最近よく見させていただいています。ご専門は経営戦略ですが、私が印象にのこっているのは現代の組織論についてです。つまり、20世紀には科学的管理法からマズローの自己実現までいろいろな組織に対する考え方があったが、結局すべて「支配する側」と「支配される側」という前提の中でなりたっている。けれど21世紀にはこうした「支配関係」はなりたたなくなり、どうやって「働く」の中に自己をとりもどすか、ということが問われるといわれているところです。

 ドラッカーが「現代の経営」の中で、性悪説-性善説であったり、X理論ーY理論といったものも、結局は人を心理的にコントロールする枠組みであり、そうしたものへの限界をその当時から説いていたことはこうした21世紀型の組織の在り方にすでに慧眼をもっていたといえるでしょう。

 竹内整一は日本人のあり方の象徴を「おのづから」と「みずから」のあわい、とまとめました。つまり、自律的あるいは如意的な「みずから(personally)」ということ、と自然発生的あるいは不如意な「おのづから(naturally)」という二つの表現が同じ「自」という言葉をつかいわけていることに、集団主義的な日本の文化の本質を抽出しました。たしかに「この度結婚することになりました」という表現は「I’m getting married」という直接的な表現とは違い、日本語的にはナチュラルに思いますが、こうしたニュアンスは翻訳では表現できないでしょう。

 こうした集団的な結論を導く、協調性を求める日本のあり方を私自身もこのみますが、一方で、そうした集団主義が本当の意味での自律的な組織になっていくためには、それぞれが支配する側ーされる側の枠を超えて、お互いに自立した、成熟した個として、組織を通じて対等な契約関係をつくるという厳しさが必要とされるでしょう。もちろん契約のみで雇用が保証されない米国のジョブ型のあり方をそのまま日本に導入することは無理もあるでしょうが、こうした日本的な部分に対しても批判的な目を見ないと、真の自律、真の自由というものを働く者の手にすることもできないでしょう。

 ただし、これは20世紀、昭和側の厳しさではなく、お互いのもつ個性や可能性というものに積極的に注意関心をむけ、強要ではなく、自他をエンパワーしていくという視点が必要になるでしょう。(エンパワーという言葉を使わざるをえないところに、やまとことばの限界も感じます)

 ドラッカーはこうしたものから目標制度をつくりましたが、彼がナチスドイツの全体主義に傾いていった歴史を2度と繰り返さない、そうした思いからマネジメントを作り上げていった歴史的背景を考えるときに、戦後70年たちながら世界が全体主義にむかっていっているこうした現状に立ち向かうためにも、私たち企業人は、働く自分たちの真の自律というものにもう一度向き合う時期を迎えていると感じます。

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