パーパス経営

 最近は「パーパス」経営論もさかんである。最近の採用傾向にも、いわゆるZ世代の方が、社会貢献に対して関心が高くなっているということを聞くにつけても、こうした仕事とはなにか、という本質にもどりつつあるのは、閉塞感ただよう社会の中での希望の光のように感じます。

 ドラッカーを改めて読み直していると、知識社会においていままでのアメとムチに代表される、人を賃金や評価でコントロールすることはすでに限界を迎えていることを説きながら、一方で社員満足に代表されるような人間関係主義は、そうしたことへの代案にまったくなっていないとしている。結局彼が強調しているのは、極めてシンプルに人間の希求としての「仕事そのものからえられる貢献や達成」というものであり、利益という物もこうした「仕事」をよりよく、より楽しくするために必要なものであるということを働く人に理解してもらうことである、といっていると思いました。

 風土改革の柴田氏も、人間を枠に閉じ込めることから、軸に沿って動ける環境を創る、そしてそのベースとなるのは「そもそも、南野とためにやっているのか」というそもそもの目的を常に問うていくことと伝えられています。そうした目的にもどることは、日常の業務のなかではなかなかできにくく、どうしても今発生している問題にどう対処しようか、という短期の対応に追われるところがあります。

 私も、つねづね経営という仕事は、こうした長期の視点と、現在の仕事、今日のメシと明日の夢をどう両立させるか、その時間軸のどの部分に意思決定の点をうつのかという葛藤にその本質があるように感じます。「いわば目先の石臼に鼻を突っ込みながら、遠くの丘をみるという軽業をおこなうこと」というドラッカーの比喩は、それこそ私自身が(軽業をこなせているかは別として)日々感じている実感でもあります。

そして、時間管理、目標設定を説いていた、というドラッカーが一方で現代の経営者にもっとも欠けているものが、聞き取り、読み、書き、話す能力だといっている点も新たな発見でありました(現代の経営 27章)。「評価や恐怖といったもので人をコントロール」することの限界をとくドラッカーがこうした人間の相互作用の中で、経営が「声」をもつこと、こうしたことを表現していることに、経営はまさに科学でも芸術でもなく、リベラルアーツであるといった彼の真骨頂が垣間見られます。

 そもそもを問うことには、即効性はないかもしれません。しかし、そもそもの事業の意義を考えていくこと、そしてそうしたストーリを語っていくこと、こうしたことが結果として良き方向に向いていく可能性があるというところに、意味を希求する人間が人間として働くということの原点があるのかもしれません。

 

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