道を歩む

ある禅僧の方の著作に、心配事の9割は起きないという話がある。実際にペンシルべニア大学
の実証研究でも、出来事の91.4%はとりこし苦労だったという事実もあるらしい。
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/32402257/

私自身、商売をしているとなかなか気の休まることがなく、よく「ピンチだピンチだ」と騒いだ
ものだった。家人からは「30年ずっと同じことを言っている」とすっかり信用をうしなって
いるのだが、確かに振り返ってみれば杞憂だったということもずいぶんあった。

問題はのこりの1割である。齢60に近づくと、人生とはここに予測もしえない出来事をうち込ん
でくるものだ、とつくづく思う。「人生は上り坂、下り坂、まさか」があるというあの「まさか」
である。仕事でのトラブルはもちろんのこと、私の場合は若い時からのいくつかの宿痾の宣告を
うけたときも、その都度「まさか自分が」という言葉がでたものだ。

まさか、には、自分自身に何らかの起因があるものもあれば、自然災害や事故ではまったくの
不可抗力もあるわけで、軽々しく語ることには慎重であるべきであろう。

しかし、学生時代、弟が大事故を起こして車いすになったとき、当時のバイト先の社長から
「他の人に起きることは、自分にも起きるものだと考えておくことだよ」と慰めににもなら
ないようなことをいわれた、その言葉を改めて思い出したりしている。

まさか、にはたいていが「喪失」をともなう。仕事上のトラブルはもちろんのこと、人との
離別、病気や事故などさまざまだ。そしてそれは日常に「非連続」を引き起こす。そもそも自分が持っているということが人間の脳がつくりだした虚構であるとはいえ、失うことには苦痛を伴う。

そして、喪失をなんらかの形で必死に埋めようという衝動にさいなまされる。それまでの
「連続性」がとりもどされることを祈って。私も振り返るとそうした衝動につきたてられる
ように動いてきた。しかし、その連続性が非可逆であり、努力ではどうにもならないことが
徐々に体にしみこんでくると、連続性が保たれていることがらについて、目をむける瞬間に
出会うこともある。

離別を体験してもそれでも知己がいること。病に直面してもそれでも生きていること。手術を
経験して、ものが食べられたり、布団で寝られたり、ということのありがたみを折々に
感じるようになった。

成人発達理論では、人間は受動的な段階から、主体的な価値観を確立するようになることを
発達の一歩ととらえる。さらにそうして確立した価値観そのものを、周囲の状況に合わせて
自ら柔軟に変化させられることがさらなる発達とされる。しかし、成功体験への執着は
予想以上に根深いと感じ、自らそれを変えていくことのは相当に難しいと思う。

喪失をともなうこうした非連続は、この柔軟性をなかば強制的に起こさせるものなのだろう。
いくら成長につながるとはいえ、そうしたことを望んでうけたくはないのもまた真実である。
よく企業で「成長できる環境」を唱えたりするが、私自身はこの面から安易に「成長」という
言葉を使うことに躊躇がある。

昨年末に人間性心理学の諸富祥彦さんの話を聞く機会があった。「先生は大変な状況にどう対応されてきたのか」という趣旨の質問に、氏は「自分のプロセスを信じること」だといわれていたのが心に
のこった。私も過去には常に動じない平穏な心を得たいと、精神修養団体や宗教、哲学といった
ものの数々を遍歴してきたのだが、結局外部に信を求めることにはいたらなかった。最近は結局地面に足をつけて呼吸をするのがその唯一の方法ではないかと思うようになった。

松下幸之助の「道をひらく」という著書の冒頭にある「自分には自分に与えれた道がある。どんな道かはしらないが、ほかの人には歩めない」という文章を折々に見返す時があるが、
この単純な真実が歩む力をあたえてくれる。