瞑想とともに

 経営にたずさわって四半世紀、その多くの時間を瞑想とともに歩んできた。きっかけは父の急逝によりエンジニアから経営業に生業がかわり、環境のあまりの変化に心身の不調をきたしたときに、偶然に出会った。当時は不調から投薬が山のようになっていたのだが、瞑想の習慣とともにいつのまにか薬にたよらずになったことは自分にとって大きかった。

 私が長年私事してきた瞑想の先生は在家で(最近はマインドフルネスとも言われる)ヴィパッサナーという瞑想方法を長年教えられている方である。抹香臭いとも言われがちな中で、師の科学的ともいえる指導が自分にはぴったりきたのであった。在家は一日10分でもできればというポリシーであるが、一方善行と五戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語 ・不飲酒)の実践には厳しかった。先の不調をきっかけに不飲酒は早くから実行できていたのだが、「嘘も方便」さえも利用しないように心を配るのはなかなか智惠も必要で難儀でもあった。

 また数日間のリトリートにもしばしば参加する機会もあった。師の方法論は徹底しており、期間中はトイレや食事はもちろん、床につく瞬間、朝起きる瞬間まで24時間すべて瞑想(気づき)を続けるというもので、数日で身体がバリバリになるようなこともあったのは今となっては懐かしい。

 実はこうした習慣がマンネリ化して瞑想から離れてしまった時期もあったのだが、うまくできたもので、たいていは五戒に絡むような人生の難儀においこまれ、瞑想に助けをもとめていく経験もした。師は「人生は『溺れるものは藁をもつかむ』と『喉元過ぎれば熱さ忘れる』の繰り返し」と言われるがまさにそんなことをいきつもどりつ今日にいたっている。

 社会的な事件などで、瞑想の類いがタブー視された時期もあったことを考えると、その後の仏教思想の普及、特に伝統的な大乗仏教でなく、初期仏教・上座部仏教の思想が広くしられたこと、さらにはジョン・カバッド・ジンをはじめとして、瞑想が「マインドフルネス」という科学的なかたちで再構成され、IT企業などを中心に普及したことなども、隔世の感がある。MRIなどをつかった瞑想による脳の前頭前野や海馬の変化といった科学的な研究なども驚くべきことである。しかし師はこうした宗教性をとりのぞくことは、最も大切な善行や五戒に代表される倫理性の喪失になり、功利的な目的の瞑想では苦しみの解消にはならないということを早くから指摘されていた。たしかに、Amazonの倉庫に瞑想ルームが設置されている写真をみたことがあったのだが、労働の大変さをそうしたプラクティスで乗り越えさせようとする企業としての先進的な思想にはある種の違和感も覚えた。結局、禅でもいわれるように、何かを獲得するため、達成するために座るのではない、「只(ただ)座る」ことに意味があるという問答に結果的に行き着くのである。

 今では特別になにかを得ようというより、歯を磨くような習慣になって今日に至っている。出家者は煩悩をなくし、悟りの境地をめざすのだろうが、日々の感情にまみれた在家の日常ではそうしたこととはほど遠い。気が散ってしまったり考え事に巻き込まれることの方がむしろ多い。その意味での進歩は感じられないともいえるが、一方ではいわゆる娯楽による気分転換とは違い、ただ呼吸を感じるだけの静寂さが、とても満ち足りた時間になるという感覚をえられるのは瞑想の独特のものである。

 瞑想の法友と言える人はいないのだが、コロナ禍ではからずも始まったオンラインの集まりでは、それこそ80歳を越えた高齢の方が、死に近づく日々を瞑想とともに過ごしているという。こうした先達の在り方に遭遇すると、これはある種の人生のよりどころになるものだという核心のようなものであるという気がしている。なかなか執着や自己中心性からはなれられない、凡夫としての懺悔の時間を今日も少しく過ごすとしよう。

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