母の思い出(1)

弟のことを書きながら、母のことが思い出された。母は2006年に70歳の誕生日を迎えて間もなく亡くなった。大腸がんであった。

 母は4人兄弟の長女として、当時の日本の占領地であった満州国で生まれた。小学校低学年の
ときに満州で終戦を迎え、戦地からの引き揚げで本土にもどった。母方の祖母は、現地で夫を
病でなくし、独り身で、兄妹4人をつれて引き揚げ船で本土にもどってきたようだ。本土には
住居も仕事もあるわけではなく、幼い兄妹はばらばらに遠戚のもとに預けられ、学校に通うことに
なったようだ。

 当時の引き揚げの話は、実は具体的には聞いたことがなかった。大変な経験はあえて
思い出したくないということがあったのかもしれない。戦争の悲惨な記録は、広島の原爆
資料館が有名であるが、新宿の住友ビルに、平和祈念展示資料館という、戦地での抑留や
引き揚げ者を中心にした展示施設がある。そうした話を聞くことがなかった私は、母が亡く
なってしばらくして、その施設に行ってみた。原爆の悲惨さには比較にならないかもしれないが、
引き揚げ船で亡くなった母親のわきに立つ遺児の写真や引き揚げ船の船内などが展示され、
母一人で子供をつれて引き揚げする当時の様子を想像すると胸が痛んだ。戦争により苦しい
思いをするのは、結局末端の国民一人一人であることを改めて痛感する。

 実は当社も、祖父の時代に満州に工場進出し、軍に関係した仕事をしていたようだ。
社には当時の海軍との取引記録もある。しかし敗戦とともに、こちらも引き揚げを余儀なくされた。
創業者である祖父は、我が国の敗戦が相当ショックだったらしい。それまでの価値観をうしなって、
経営から身を引いてしまう。しかし、丁稚奉公で働いていた社員も出征から戻ってくることになり、
当時中学を卒業し神田の電気学校に通い始めた父は、当地の近くに工場疎開をすることをきめ、
学業をあきらめた。

 母はというと、地元の高校では学業がそれなりに優秀で、担任からは教師にでもなるようにと
進学をすすめられたらしい。しかし、親戚の家に身を寄せている身分でもあり、卒業後は地元の
銀行に就職した。母も地元の金融機関に職をみつけたようだが、戦後の女性の働き口探しの苦労も
しのばれる。
 もともと父は地元の村長に、空き家となった瓦工場を紹介され、そこで商売を再開したことが
当地に工場疎開するきっかけであったようだが、その村長のうちに母は身をよせてもらっていて、
どうもその縁で紹介されたらしい。一説には父のひとめぼれであったようだが、この話はだれから
聞いたか今となっては忘れた。

 家業を手伝うことになった母は、経理を覚えるために、今は高等学校となっている(とおもわれる)
神田の村田簿記学校の夜間に通ったそうだ。仕事をしながら夜学に通って経理を覚えるということで、
睡眠もままならならず、また創業者と商売をやってきた姑である祖母とも一緒に仕事をする気苦労
もあっただろう。当時はストレスもあったようで、たびたび倒れて、最初に身を寄せさせてもらった
親戚にもどり、横になることもあったという。
 祖母は祖母で、当地によそ者として移ってきたため、地元に受け入れてもらうために、お寺の寄り合い
など種々のコミュニティに顔をだしながら、それなりに散財もして何とか地元に溶け込もうという
必死の思いもあったようだ。父は16歳の若造がそれなりの年齢の技術者をつかっていくことでの気苦労
があったようだ。職場で失禁してしまうなんていう高齢の技術者をそれこそ介護でもしながら面倒を
みていたという話も聞いた。 
 その意味では企業経営の苦労は、どの経営者においても挙げだしたらきりがないのだろうが、
子供心に思い出すのは、平日は、朝は子供の登校で世話を焼き、夜は夕食を終えたあとに自宅に持ち帰った
経理仕事をこなす働きづめの姿、そして休日は片頭痛に悩まされ強い頭痛薬を服用して寝床でふせっている姿、というギャップであった。(この項つづく)

同一カテゴリ記事 (直近10件)