手段の目的化、またはアンラーニング
人間は目的では対立しない、手段で対立する」という概念を知ったのは、故マーシャル・ローゼンバーグが提唱したNVC(Non Violent Communication)からでした。
マーシャルは「ニーズ」ということばで人間が共通に欲している概念を導き出したところに、卓越を感じます。すなわち、食料や水といった生存のために必須のものに加え、人間が社会的動物である所以としての「進歩」「安心」「つながり」「理解」「楽しみ」「スペース」「尊重」「配慮」「正直さ」「一貫性」などなど、さまざまなものを私たちは日常のさまざまな場面で希求していることを感じました。
その中で、こうしたニーズは互いに共通なのに、その「方法」が違うことで対立がおきているという事実でした。たとえば「仕組み」も「人間関係」も、組織がよくなるためにとおもって考慮されるものですが、そのやり方をめぐって、こちらがいい、そちらが間違っているという議論になりがちです。
「現状をよくしたい」という思いでは一緒なのに、互いの方法論の違いに違和感を感じる、そこに付随するのが、自分の過去において成功したと思われる方法への執着でしょう。しかし、成功体験が強烈であればあるほど、そうして「方法」に対する思い入れは強くなり、結果として自身の信じる方法が「正しい」、そうでないものは「間違っている」という結論になりがちであることは、私もしばしば体験します。
スコラの柴田さんが来月新刊をだされるということですが、その中にでてくる一節としてお聞きしたのは、「過去の成功例を提示することは、相手の意見を封じ込める」という言葉です。過去の実績は知恵でもありますが、一方で相手を抑圧するものであることは自覚的でいたいものです。
そして、こうした正解のない時代といわれる昨今の状況に柔軟に対応するために、「アンラーニング」ということもしばしば言われます。しかし先の方法論に絡めれば、自身が過去の経験で学習した成功体験を「手放す」ということは、簡単なことではないと自分でも日々感じます。なぜならこうした一人一人の個人の歴史の積み重ねが、まさに現在の「自己像」を作っていることを考えるとき、こうした「良き」方法を手放し、新たな方法をインクルージョンすることは、自分自身の土台が揺らぐような行為だからでしょう。
しかし、現代に求められる力とは、こうした自分が前提とおもっている方法論の枠組みに自分がどう縛られているか、に常に自覚的であることでもあります。こうしたことを常に自覚しながら、そうした枠にからめとられないあり方を模索していきたいと考えています。