ネガティブ・ケイパビリティ

 ネガティブ ケイパビリティという言葉が、最近の著作でも目にするようになった。これは「不確実さや不思議さ、懐疑のなかにいられる能力」または「どうにも答えの出ない事態に耐える能力」などといったニュアンスで、詩人のキーツが造語したという。

 もともと知ったのは 医師であり作家である帚木蓬生さんの同名の著書だった。精神科の医師として、なかなか症状の改善がみられない患者さんに対し、この力の存在を考えると、宙ぶらりんの状態に耐える力が増すのだという。ポジティブシンキングと効率性、答えを出すことが全盛の社会で、この力を発見したキーツに感謝しているそうだ。

 最近は注目度もあがっているようで、NHKのクローズアップ現代でもこれをとりあげている。
(以下が割と詳細なサマリー。https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4820/

 番組では、ネガティブケイパビリティの高さを「もやもや力」と言い換え、この高いグループと低いグループに分け、テーマについてのアイデア出しをしてもらう実験をしている。「モヤモヤ力」が高いチームは、すぐに休憩を入れたりしながらも、発散的に創造的なアイデアをだしていく。一方それが低いチームは言葉の定義などから入り、結論への最短コースを目指す。そして一見非効率に思われたモヤモヤ力の高いチームが最終的により斬新な結論にいたったというまとめだ。

 たしかにシステム思考においても、問題に対する直接的な解決策が時間差で思わぬ副作用を生み出すものである。だから俯瞰してシステムでとらえることを説くわけだが、ここにもモヤモヤ力の出番がありそうでもある。連れ合いの相談にすぐに解決策を示したくなってしまい「話をきいてない」と怒られる私などは、まだまだこの力が足りていないのだろう。

 およそ20年前にスコラ・コンサルトのオフサイトミーティングを体験したときは、まさにこのモヤモヤのオンパレードだった。必ずしも結論をもとめないディスカッションは、終わったあとまで宙ぶらりんの感覚が持続することがあり、スッキリしない。が、そうしたグレーの状態を保持しているとやがて巡り巡って、いままでと違うアプローチが思い浮かぶということも多々あったように思う。

 そもそも、およそ生きることは、ネガティブケイパビリティを問われる日々といえるのではないか。老化に象徴されるように、年齢と共に、身体においても経験においても、非可逆的なことも多くなる気もする。実は故障のため新たに購入した時計を、一日しただけで自宅のどこかに置き忘れ、かれこれ数ヶ月たつ。ありあわせの時計をしながら、今日はきっと見つかるのではないか、と希望をいだきつつ過ごすのもこの力の発揮だろうか。いかにも大袈裟だ。

改めてこの言葉を考えるときに、なぜか宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を思い出す。

 「東に病気の子供あれば、行って看病してやり
  西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い
  南に死にそうな人あれば、行って怖がらなくてもいいと言い
  北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろと言い
  日照りのときは涙を流し、寒さの夏はオロオロ歩き」

賢治もキーツと同じく詩人であるが、生老病死、労働、人間関係や自然といったものの前で、それでもこのネガティブケイパビリティを発揮していこうという希望の詩ととらえるのは曲解に過ぎるだろうか。

そして時計探しの日々は続く。

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