あきらめること

人生には三つの坂がある、上り坂、下り坂、そしてまさか、という陳腐なたとえがある。人生も半世紀を超えると、まさかこんなことがおきるのかと思えるようなことが起きるのだな、ということを図らずも認めるような心境になる。

そもそも父が急逝したときも、まさか突然に経営に携わるとはおもってもいなかった。その後も、自分の想定を越えたで出来事が、人生のシナリオに組み込まれているなと思う。

その時々は「あー、今がどん底なのか」とおもうのだが、大抵はそれ以上に予想を超えたことが起きる。学生時代、バイト先の社長に「他人におきることはね、自分にも起きるものだと思っていた方がいいよ」と言われたことがある。なぜ学生の私にそうしたことを言われたのか、今となってはわからないのだが、その社長もこうした人生の経験を積みかさねていくなかで至った言葉だったのか。

そうした局面では、ある種の喪失を通じて自分の限界というものに直面させられる。

若かりし頃にに対人関係に悩んだときがあり、当時は読めもしない哲学書や小説などにその救いを求めていた青臭い時期もあった。そんな時に森田正馬という明治時代の精神医学の著作にであった。言葉づかいは大変古めかしい要領を得にくかったのだが、その中のトーンに私自身にはなにかしっくりくるものがあった。

その森田の思想には「諦めること」に対する肯定的な態度がある。よく成功哲学の本などでは、エジソンなどを引き合いにだして「失敗は諦めたから失敗になるのだ」として諦めないことの大切さが説かれる。しかし森田は、仏教などの影響からか「諦める」という言葉の語源にある「明らかにする」という側面に着目する。つまり現実を希望的観測や悲観的な見方から脱し、そのまま直視し、できることとできないことを見極めよというニュアンスがある。

最近は「ありのままの自分」を認めようというアプローチも一般化していて、例えば「セルフコンパッション(自己共感)」という概念もハーバードビジネスレビューでも取り上げられるようになった。こうしたことをビジネスにも取り入れられのには時代の変化を感じる。

一方で明治のこの精神科医は、ありのままとはいわず、「あるがまま」という言葉をつかう。そこには良いも悪いもないむき出しの現実という地に足のついた感覚がある。

そして、ほんとうに人ができないことをまるごと受け入れたときに、その中から、できることはなにかというその人固有の生き方が生まれてくるというのだ。泣いても笑っても自分はかくかくしかじかのものである。できないこともやれないこともある。望んでいたのに、努力してきたのに、諦めきれない
ものもある。しかし、そうした気持ちはそのままに、その限界を明らかにすることによって、その人らしさ、が逆に発現されるというのだ。だからいわゆる森田療法とよばれるものでは、順調にいくことだけでなく「行き詰まる」ことに意味があるととらえていると理解している。

企業経営で悩ましいのが、人を評価することである。平等主義は組織を腐らせる。一方で人間というもののほんとうの力は、そうした画一化した評価とはかけ離れた、限界と諦めを乗り越えたなかで示されるその人の個性的な生き方にたどりついたときにはじめて発揮されるとも言える。

今の企業社会の中ではそうした独自性や固有性を活かせる仕組みがつくりにくくもあり、そうした矛盾と葛藤することもしばしばだ。評価などは経営者が変わればそれこそ180度変わってしまうし、
大事でありながらも、所詮さまざまな人がまとまるための限界のあるいち手段に過ぎない。

そして、諦めることは新たな自分の発見でもあり、本来の自分をとりもどす機会でもあるのだろう。

こうしたことは言葉にはできても、気持ちの上なかなか受け止めきれないのが現実だが、「まさか」の先には、「まさか」こうした自分がいるのかに出会う機会でもあるのだろうか。こうしたことを少しでも受け止められる企業体になっていきたい。そしてそれが企業の個性化ということになることを信じたい。

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