兄弟というもの(1)

 私は長兄で、弟が2人いる。年子の弟と7つ違いの弟だ。年子の弟とは、一緒によく遊んだ。小さな時は地元の食堂を走り回ってずいぶん
と迷惑もかけた。弟は昔から手先が器用で図画工作が得意であった。またスポーツにも長けていて、特に球技はなんでもこなした。一方私
は運動がからきしダメで、体育の授業の存在がそれこそ悪夢のように思えた。それでも小学生のころは二人ワンセットで近所の家や近くの
空き地でひねもす遊び回っていた。
 ある程度の年頃になると、家業の後継の事を意識させられるようになった。進路においても私が電気系、弟が機械系を修めることを希望
していることがなぜか伝わってきた。父は戦争のため16歳で事業を継いだこともあり、技術がわからないという苦労があったという。弟は昔からき機械いじりにはなじみがあったが、私自身は電気の分野にそれほど興味があったかといわれるとよくわからない。家業だからという理由で進路がきまることをなかば当然と思っていたのは、今考えると自然なことでもあり、とても不自然なことにも思える。
 高校時代は、わりと文武両道的な校風の学校だった。周りの皆は将来の希望をもってスポーツに、勉学に励んでいたが、私自身は路線がきまっているという思い込みからか、勉学の意味が見いだしづらく、だんだんと授業についていけなくなった。一方弟の方は、遠距離通学の負担や、運動部の厳しい活動をものともせず、淡々と勉学もこなしていた。オープンな性格の彼は試験前になると友人を自宅に招いて一緒に勉強をしていたが、そうした彼の人望がうらやましくもあった。
 子供時代はあれだけつるんで遊んでいた兄弟だったが、青年期が近づくにつれ私自身いつのまにか競争意識をもつようになっていたのかもしれない。いまでも覚えているのは、当時弟は旺文社の添削課題をやっていたが、私はより難しいと言われたZ会の添削にとりくんだ。といっても実力とはかけ離れていたので、なかば無駄使いをしたようなものだったが、兄貴としてのプライドがこんな風にでていたのは今考えると恥ずかしくもあり、なさけなくもある。
 その後私が余計に年を重ね、なんの因果か結局同じ大学に同じ学年として進学することになった。弟は相変わらず奔放にスポーツや音楽活動など学生生活を謳歌していた。私はといえば、理工系にすすみながら、不得意であった英語のクラブ活動や、他校の社会学のゼミに参加したりしていた。当時筑紫哲也が編集長だった朝日ジャーナルに刺激されてジャーナリストに憧れることもあり、「トランジスタ技術」と岩波の「世界」が本棚にならんでいた。権力に対抗する言動に共感があったのも、迫り来る跡継ぎという役割への抵抗だったのかもしれない。
 そんなときに我が家を震撼させる事件が起きた。弟は冬になるとスキー場で住み込みでアルバイトをしながら指導員などをやっていたが、あるとき自爆して首の骨を折ったという連絡が入った。程なく大変深刻な事故であることがわかった。リハビリセンターなどでのトレーニングを経て、パソコン等はできるものの、結果的に車椅子の使用はまぬがれないという。そのことがわかったときの家族の落胆は大きかった。特に父は大病も経験したころであり、追い打ちをかけられるような気持ちもあっただろう。毎朝父がベットサイドに立ってため息をつかれていたのを聞いているのは、ほんとうにしんどかったと、弟から後々聞かされた。
 

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