会議資料

 職場を整理していると、父親が会議で配布した資料がでてきた。平成5年とあるから、ちょうど30年前に書かれたものだ。「93年度後期を迎えて」とタイトルされている。

私自身は父が病になったことをきっかけに入社したこともあり、どんな風に父が仕事をしていたかを真近に触れることはなかった。取引先の人伝てには「鬼社長」といわれていたようだが、自宅では寡黙な人で、休日は祖父が残した盆栽に水をやり、あとはテレビでゴルフと相撲をみる、といった過ごし方をしていた。

「企業経営においても、人生においても、なかなか思ったように事は運ばないものだ。私も来年の1月で65歳をむかえる。それなりに夢も目標ももって今日まで努力してきた、目標には到達していないが、幸い今日まで健全で企業の運営が出来た事は、みんなの努力と協力の賜物と心から感謝している」と書き出す。

 さりげなく「人生においても」とあるが、自身の病と、家族での大きな事故が重なり、バブル崩壊の経営的にも厳しい時期に、本人の気持ちはいかばかりかと思われる。ことの大きさに圧倒され、自分であれば仕事どころではないという気持ちになったのではないか。私自身も50代後半になり、人生の終端が意識される年代になると、この短い一節の行間に見え隠れする信条が我がこととして伝わってくる。

 父は戦後、創業者の祖父が敗戦の喪失から経営の一線を離れることをきっかけに、16歳で当時通っていた神田の東京電気学校を中退し、東京から埼玉に疎開をしてきた。中高生といった年齢の少年が年上の人に囲まれながら知らない土地で商売をやっていく苦労は、戦後を乗り越えてきた多くの人に形は違えども共通するものだったろう。しかし、満州からの引き上げを体験した母も、当時のことにはほとんど触れることなく、鬼籍に入って数十年がたつ。

 「学歴は商売人にとっては単なる勲章だ」といいつつも、「技術がわからなくて苦労した」とこぼしていたこともあり、今となってはどちらが真意だったのだろうか。

文章はこう続く。「長く見てもあと10年の人生である、・・・(自覚している。)現役も3~5年がよいところである。その間に当社の方針及びレールをもっときっちりとしたものにしておきたい。またやり残したことが多々あるように思われる。今後その一つ一つを具体化していきたい。皆んなの知恵と努力をお願いしたい」。

 この文章をかいてちょうどミニマムの3年後、父は68歳でなくなった。同時に私が経営につき、右も左もわからぬときに、ある先達の経営者が「経営は一生夢を見続けているようなものだから」といわれたことをよく覚えている。その意味で父の文章に流れるものは、経営者にとっての共通の想いなのかもしれない。

「当社は機械化による合理化の難しい企業である。言い換えればより一人一人の創造力を活かせる企業である開発力、営業力をどこまで向上できるか(中略)企業は生き物であり、時代の変化にどれだけ素早く対応できるか、また、企業は人なりといわれているとおり、人材の確保と育成に全力を注ぐ。」

 こうしたある意味当たり前のような言葉でしめくくられたメモではあるのだが、その原理は30年後の今日も色あせてはおらず、アフターコロナを迎える今、あらためて同種が問われているように感じる。

 人生とともに押し寄せる諦念と、それでも求め続ける夢のはざまで、私も父の逝った年齢に近づきつつあることを実感している。「銭湯の富士山が好きで、絵描きになりたかったんだよな」と意外な言葉を漏らした父とは仕事で言葉をかわすことがなかったが、そうした彼の夢に思いをめぐらせながら、今日まで仕事をしてきたのだろうか。そうした私自身の隠れた部分に、この色あせたコピー用紙が服の裏地のように問いかける。

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