母の思い出(2)

(承前)母の没後はいろいろな話をきかされた。銀行の支店長からは社長の奧さんということで
気位が高そうだと思っていたが、本人が菜っ葉服で工場からでてきたので、印象が
変わったという話を聞いたことがある。

あるお客さんからは、その昔製品立ち上げのために、泊まりがけで通い詰めていたことが
あったそうで、「あのときはお母さんに朝飯の味噌汁をつくってもらった」という思いでばなしも
聞かされた。

また、これが昭和の家内工業の姿なのだろうか、昔は社員の子供が生まれれば、服や靴を買い与えたり、
社員の法事関係は事細かに記録していて周年の供物を用意したりしていた。正月といえば、年末から
数日かけておせち料理を仕込み、正月2日に社員が大挙して訪問してくるので、おせちを振る舞う
などしていた。一通りの振舞が終わると夜半まで麻雀大会が始まるので、こんどはお燗の用意など、
正月を楽しむという余裕は少なかったようだ。

当時は社内結婚もおおかったので、家には仲人をした結婚式の写真もうずたかく積み重なっていた。
こうした家族ぐるみの濃厚な付き合いの中で自分も育ってきたので、物心ついてきたころには、
将来こうした皆さんの面倒をみていくことになるのか、と思うと胃の奥の方がずっしりくるような
気持ちもあった。

父はあるときまで車を運転していたが、不幸にも当時の社員が死亡事故をおこしたことがあったらしい。
被害者の家に何度もわびに行ったようだが、それ以来車の運転をやめてしまった。その後、私の末の
弟が医療事故により身体に後遺症がでることがあり、その通院のために母は40歳をすぎてから車の
免許をとった。仕事をしながら、またもともと運動のできる方ではなかったので散々苦労をしながら
運転免許をとったのだが、それがその後の次男の障害の介護に役に立つことになるとは当時は思っても
みなかっただろう。

父が亡くなったのは四半世紀前になるが、私は父の調子が悪いからということでなくなる1年ほど
前に勤めていた会社をやめてもどってきた。当時父はすでに脳腫瘍におかされていて、経営者仲間
から自動販売機がつかえなかったよ、おかしいよ、などと言われる予兆はあったが、自宅でお茶っ葉を
(急須ではなく)湯飲みにいれたり、パジャマのズボンに手を通したりという奇行が目立ち始めたこと
で病気が決定的になった。

母は当時、ガンマナイフという新しい放射線治療がでたころだったので、可能ならばなんでも
試したいということだたが、厄介になっている地元の病院からは設備もないこともあり反対された。
父は脳障害状態だったのでドクターとの話し合いもできず、母は病院の先生と大喧嘩をして転院した。
その当時の母の激しい戦いぶりは子供ながらに記憶していて、そうした母の強さというものを思い知った。

そうした治療の甲斐もなく、父は進行につれて日に日に正常な反応ができずになり、私自身そうした
父を引き連れて客先まわりをしていたときが一番しんどかった。今でこそ無理に顧客に引き合わせる必要
はなかったと思うのだが、本人は治療が順調だとおもっていたこともあり、行くなといいづらいところも
あった。しかしお客様の前で突然脈略もないことを言い出した父をどうとりつくろえばよいのか、そのときの気持ちは筆舌につくしがたかった。
 そんなある日、自宅から東京の病院に父を向かう道中で、首都高速で「トイレに行きたい」と父が突然
叫びだした。どこかに停車する余裕もなく、道路沿いの狭いパーキングに留めて、道行く車をわき目に
見ながら、突風吹きすさぶ中、さけぶ父の排泄をてつだったその時の光景は、今でも夢にでてくる。
あの当時は必死でとにかく一日一日をすごしていくしかなかった。(続く)