枠と軸
スコラ・コンサルトの山科さんが理科大MOTで行った講演を聴く機会があった。当日は別のオンラインセミナーもあったので長丁場の大学院の授業をすべてを網羅できたわけではないのだが、それでも聴講者の各企業がかかえる、リアルな現場での風土改革を進めるにあたっての疑問について、様々な示唆に富んだ回答が大変参考になった。
スコラの古くからの考え方で常に中心となるのは「枠思考」と「軸思考」という言葉であると理解している。組織からルールとして人間にあてはめられた「枠」を守る仕事観と、仕事の意味や目的、価値というものに焦点を当てた「軸」をもった考える力を中心にした仕事観。いわゆる官僚組織にもとめらえるのはこの「枠」であり、業態によってはそうしたものが重要な側面もあるが、「枠」を守ることが目的化して、そもそもなぜそれをやっているのか、ということを考えなくなり、「いわれたことをやる集団」の恐ろしさという側面にフォーカスを当てている。
私自身は「枠」の仕事感における、人間を「機械」のように見ることへの若干の違和感である。人間は弱い者なのでそうした統制は必ず必要であろう。しかし、我々がまさに自動化を通じて機械化しているかのごとく、人間を「ここを押せばこうした出力がでる」と扱うことによる、やらされ感や思考停止の可能性を一方では常に意識する必要があるだろう。なぜなら人間は「地位」や「金」で動くと同時に、「意味」や「使命」というもので動くことのあるという、生命体としての複雑性をもったものだからである。
私などは父の急逝もあり考えるゆとりがなかったが、知り合いの中小経営者には、大手企業で海外赴任なども含め恵まれたキャリアをつんでいたなかで、家族や親戚などの事情であえて後継をされるケースも数多くみているとこうしたことを考えてしまうのかも知れない。その意味で、「組織の中のどんな仕事にも価値はあり、なんらかの貢献をしていること」をお互いに確認する場というものの大切さというものを今回の講演で改めて認識した。
スコラのこうした考え方に最初に触れたのは、就任まもなく直面した世代交代問題であった。ちょうど中小経営者向けの風土改革のセミナーがはじめて一般向けに開始されたときでもあり、普段のセミナーと桁の違った場に参加することを決意するまで追い詰められていた。ところで、参加してみてまた驚いたのが、セミナーというものは通常テキストやレジメをわたされると思っていたが、ある回では「枠」「軸」とだけかかれているA4の紙をわたされて、これについて考えるというお題で半日議論した。ちょうど30台前半の同年代であった参加者と、「まるで禅問答」「あれは手抜きだなー」「いやいやあれが真骨頂なんだよ」などと終了後の飲み会で語ったことを思い出す。
こうした「そもそも」についての対話を重ねるということは、かなり体力を消耗する。普段仕事をさばく、こなすことで使っている脳みそとは別のところに血流をとおさねばならず、また終わったあとにも「もやもや」が残り、その違和感を抱きながら次の回までの1か月を過ごすという体感は独特のものだった。今回の講演ではオフサイトは「拓く場」(正解をもとめられない問いが拓かれた対話の場)とか、エドモンソンの「心理的安全性」といった用語の援用なども含め、当時から比べるとかなり体系化されてきて、理解も深めやすく、コロナによる身体的な意味もふくめた一体感の不足が深刻さをます今般では、さらに重要となってくるように思う。
こうしたアプローチは、以前は単純にフラット化とかボトムアップのように軟弱なテイストとして理解されることがあって私もそうした考え方の混乱に陥ったり反証にこまったこともあったが、最近出版されたトム・ニクソン「すべては1人から始まる」(英治出版)にはこうした誤解への一つの解ががあるように思う。すなわち、有機体としての組織においてはソース(私なりに解釈すれば生命エネルギーの原点であり、また創業の精神といったもの)が不可欠であり、こうしたものを実現するために、必要なナチュラルなヒエラルキーがつくられる、というものだ。スコラの柴田さんがずいぶん昔に「資本主義と民主主義の統合」という比喩をつかった文脈で、同時に民主主義における「憲法」の存在の重要性を説いていた時期もあったと記憶しているが、現代の民主主義自体に対する評価は、いろいろな意味でかなり揺れている。しかしこのソースの必要性という考え方は、「軸思考」につながるのではないか、という個人的な解釈をしている。
いずれにせよ、たばこ部屋での観察から始まったこうしたアプローチが、その後学究の流れも含め、体系化されていっていること、そして技術経営というなかで取り上げられる時代になっていることに時代の進化を感じたし、なによりも私自身が希求する、機械的組織論を越えた人の本性にあわせた経営のあり方というものへの大きな示唆を与えてくれるものである。こうしたアプローチはわかりにくく、試行錯誤の連続になることを承知しているが、自分自身なんとしても具現化していきたい強い想いがある。