体温調整

  コロナ禍になって、体温を毎日はかることが習慣となり、あらためて人間の体温調整機能のバランスに関心をします。外気温は1度2度の変化はあたりまえ、昨今の私たちの地域は40度を超すようなこともありますが、人間はそうした環境においてもコンマ台の体温を自律的に調整しています。

 一方そうした人間の身体的機能とは逆に、その心というのはさざ波のように大きく変化する物だと思います。たとえば組織である仕組みを導入したときに、同じ人がそれを活用していこうという気持ちになるときもあれば、一瞬にしてやらされ感に陥ることもあります。その昔、ケン・ウィルバーがこれほどまでメジャーでなかった20余年前、かれの思想はどちらかというと精神性のが側面(「無境界」や「存在することのシンプルな感覚」といった著作に代表される)に注目が集まっていた時期がありましたが、当時からの真骨頂であるとおもうのは、「個人・組織の内面」という見えない部分と「個人・組織の外面」、すなわち仕組み的に見えるところの両方を俯瞰できているかを意識せよということであり、往々にして個々人は特性としてどちらかに偏った視点を持ちがちであるということでした。

 組織には当然何かをやる目的としての「機能的」な部分と、一方で人があつまるという「コミュニティ」の側面があります。「機能」だけにフォーカスすると「ぎすぎす」したものになりますし、一方でコミュニティー性にだけ着目しても「ぬるま湯」に陥ります。組織そのものの構造においても「階層、ヒエラルキー」の側面と、「インフォーマルなつながり」という力学が同時に存在します。そしてこのどちらかだけでも組織は円滑に回らないでしょう。 その昔、伊丹敬之氏が提唱した「性弱説」、すなわち、人間は「より良くなりたい」という性善説の側面と、「楽をしたい」と思いたくなる性悪説の両面があり、どちらも同じ人間の中に同時に沸き起こってくる物である。そうした人間に対しこれはて唯一いえることは、人間はそうした両極に簡単に振れてしまう「弱い物である」という考え方であり、これは人間の両面性を的確にとらえたもののように思います。実際私自身も安易に流されそうになる気持ちと戦いながら、それでも夢をおっていきたいという葛藤を常に感じながら、前を向いて生きてこうと思っているのが正直なところです。

 こうした人間の多面性の背景には、人間が個として「主体性・自律性」を希求しつつ、一方で「お互い様の助け合いの関係」をつくれるという、相矛盾した機能があるからだといえるでしょう。ウェルバーはこれを上昇と下降、あるいは縦と横、エイジェンシーとコミュ二オンという言葉で表現しました。

 一方、人間はその個性の発露として、また自我の確立の面で、どちらかの傾向を自分自身のアイデンティティとして作り込んでいくというプロセスがあることもまた真実でしょう。こうしたものをどう自らに、また組織に統合していけるかということは、私自身も含め、一個人としてだけではなかなか完結できないテーマではないかと思っています。しかし組織が人間のつくった有機体であるととらえるときに、まさにこうした「ホメオスタシス」を意識しながら、こうした二面性のどちらかの方向に振れすぎていないかということを、体温調整のように管理していくこと、こうしたことが組織の持続性を保ちながら粋な替えさせていくことのある種の本質的なポイントのように思っています。

 そして、そうした自動操縦ができない人間として、体温を保ってくれている身体に感謝をしたいものだととおもうわけです。